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ハワイ王朝転覆から125周年

ハワイ王朝転覆から125周年

先週17日にイオラニ宮殿を中心に、大規模な記念行事が開催されました。

この行事は「Onipa’a Kākou」(揺るがない我々)と題された先住ハワイアンによるもので、ハワイ王朝が転覆してからちょうど125年目となる17日に行われました。

1893年、ハワイ王朝最後の女王リリオウカラニは、アメリカの資本家と、米国海兵隊が起こした革命によって王座を剥奪され、ハワイ王朝は滅亡しました。

今もなお、この歴史的背景に対して併合の違法性を主張し、先住ハワイアンの主権回復を目指す団体が、今回の行事に参加しています。

ヌウアヌの丘にある王家の霊廟にて日の出とともに式典が行われ、そこからイオラニ宮殿まで参加者による行進が行われました。Honolulu Star Advertiserによりますと、約2,000人もの人が参加しました。

行進は数百メートルにもなり、ダウンタウンを中心に交通規制が行われました。

ニュースによると、イオラニ宮殿にもこの行進を迎える人が2,000程おり、全体の参加者は、約4,000になったそうです。

 ハワイの歴史

ハワイは、火山によって出来た無人の島で、もともとどこかの大陸と陸続きになっていませんでした。

ポリネシア人が、カタマラン(双胴船)に乗って星の位置を頼りに航海し、ハワイに到着したと言われています。※

※彼らは文字を持たない文化の為、正確な記録が存在しません。

彼らは12世紀頃には、アリイと呼ばれる族長が土地の支配と統制をし、アリイ、カフナ(神官)、マカイナナ(庶民)、カウバ(奴隷)という階級が存在しました。

1778年イギリスの探検家 キャプテン・クックがオアフ島を見つけたことから、ハワイの存在が知られるようになりました。

キャプテン・クックによるハワイ諸島発見以降、来航者が増えましたが、

1790年にカメハメハがハワイ島を統一し、1794年にイギリスと防衛援助協定を結びました。

これにより、外国からのハワイ侵略をイギリスが防ぎ、また、イギリスから手に入れた武器を使って、ハワイ諸島(ニイハウ島とカウアイ島以外)統一し、ハワイ王国を誕生させました。

その後、カメハメハ3世の代で憲法を制定され(1840年)、国家としての体裁が整い、各国からハワイ王国を承認されました。

19世紀にはアメリカの企業がハワイに進出し、サトウキビの栽培、輸出を始めました。

そして、1887年にアメリカ人の投資家、政治家、サトウキビ農場主による「ハワイ連盟」とよばれる政治組織が結成され、武力によって、当時の王、カラカウアの退位を迫り、代わりに内務大臣のアメリカ人が起草した新憲法を受け入れさせました。

この憲法では、国王は、議会の承認なしで政治に関与できないことや、ハワイアンとアジア人の選挙権を与えないといった内容でした。

これにより、ハワイの冒頭のハワイ王朝転覆に繋がります。

1893年1月16日、アメリカ海軍艦USSボストンが、ホノルルに侵入し、リリウオカラニ女王を幽閉しました。

女王は、ハワイアンの命と王位の放棄を天秤にかけられ、ハワイアンの命を優先し、王座を退位しました。

125年前の1月17日に、王政廃止を宣言しました。

リリウオカラニ女王は、失脚後、1917年に亡くなるまで、イオラニ宮殿のから山側に5分ほどの所にある「ワシントン・プレイス」と呼ばれる白い邸宅で生活をしました。

こういった歴史の流れを見てみると、リリウオカラニが「悲劇の女王」と呼ばれる意味がよく分かります。

また、今もなお、ハワイアンの人々の心の中には悲しみや怒りが根強く残っていると感じました。

時間をもとに戻すことは出来ませんが、これから先、大好きなハワイにどう貢献していくことが出来るかを真剣に考えさせられる機会となりました。

参考・出典:
ハワイ州観光局 History  https://www.gohawaii.com/hawaiian-culture/history
Wikipedia ハワイの歴史 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

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